母の思い出

2016年3月13日

今日は母の命日、4年になります。膀胱癌が見つかり、病院に行った時は既に手遅れでした。60代ならば開腹手術が出来たのですが、高齢で寝たきりになるので、「(癌は)取れるだけ取る」と医者に言われました。母は完治したと思ったようです。退院の時、医者から「膀胱が破裂する恐れも有る」と言われ、一人暮らしの母をどのようにするか、子供3人で考えました。その結果、軽い認知症も有るので、少人数のグループホームに入れることにしました。少人数だと、膀胱が破裂した時等も職員さんの目が行き届くと思ったからです。しかし、母の具合が悪くなったにも関わらず、施設からは何も連絡はありませんでした。その結果、母は瀕死の状態になりました。一人で歩いて入居してわずか3ヶ月足らずで、です(>_<)12月31日、我が家で母と一緒にお正月を迎えようと思い、施設に行きました。その時には既に意識も無い状態で、直ぐ病院に行き、再入院をお願いしました。しかし、大晦日で取り合ってくれないので、施設に連絡を取り、事情を説明してもらいました。救急車で運ばれ、すぐ入院の手続きをしました。病院では個室に入れましたが、特別室ではないので病室に浴室はありません。私は病院から宇治に帰り、入浴して着替え等を持ち、病院にとんぼ返りです。泊まり込んでの付き添いが始まりました。お正月どころでは有りません(@_@;) 妹、弟に連絡を取り、付き添いのローテーションを組みました。母は話すことはほとんど出来ませんでしたが、私が話かける声に耳を傾け、私の顔をじっと見つめていました。車椅子で少し散歩も出来るようになりましたが、3ヶ月を過ぎると、何か手術等をしなければ、病院にいることが出来ません。延命治療は拒否する旨の書類を出していたので、次は終末医療専門の病院に入院となりました。以前の病院とは違い、尿や便の臭いがする病院でした。入院した翌日行くと、母は私の手をきつく握ります。何か訴えたいのだと思いました。ずっと前に知人のお見舞いに行った時、痰が絡んで苦しそうな様子を見て、看護師さんを呼んだ記憶が蘇り、すぐ看護師さんを呼びました。痰を吸引してもらって、母は漸く眠りに付きました。死を待つ病院と病気を治す病院とは随分違うと思いました。最初にグループホームに入れる時、私が住んでいるマンションの空き室に引き取り、私や娘が世話をすることも考えました。しかし、何か起これば私たちの責任になると、迷いが有りました(~_~;)今でも母のことを思うと涙が出てきます。母は私や娘をとても可愛がってくれたのに、恩返しも出来ないまま逝ってしまいました。マンションに住んでいたら、社交的な母は友達に囲まれて今も元気で暮らしていると思います。母が建てたお墓に私が入れば、私の娘たちがお参りしてくれるから「必ず入ってね」と頼まれたけれど、遠い場所に有るから娘たちにお墓の世話をさせるのは無理です。「ごめんね」と謝り、お墓は返還しました。母のお骨と写真はベッドサイドに置き、朝は「おはよう」夜寝る時は「おやすみ」と声をかけています。外出する時は必ず、母が作ってくれたネックレスや指輪を身に着けています。35年前に編んでくれたセーターは毎年着ているにもかかわらず、まだまだ現役です。母の為にと、買った絵手紙の本も見ることなく母は亡くなってしまいましたが、今、お茶まるの色紙製作に役立っています。私を可愛がってくれている、母の一番下の妹(私の叔母)は「お茶まるの活動をお母さんは喜んでいるよ」とメールをくれました。叔母と母とは10才、私とは12才違います。私と誕生月が同じで、叔母は2月22日(猫の日)、4日後が私の誕生日です。誕生日はお互いメールの交換をしています。メールといつも電話を掛けてきてくれる優しい叔母でもあります。

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穂高

「宇治のお茶まる」の副代表で、会計担当。チャレンジショップでは店番も担当。